伊那佐の歴史
伊那佐
神話の世界にも登場する「伊那佐山」。明治11年、山の名を頂いた伊那佐村ができ、明治22年に現在の11大字で、新たな伊那佐村が誕生しました。
旧伊那佐小学校の校歌にも「伊那佐山」そびゆるふもと・・」とあるように、伊那佐山は、今も昔も「伊那佐」当地のシンボル。麓の11地区が一体となって、歩んでいます。
伊那佐山
『古事記』、『日本書紀』によると、即位前の神武天皇が宇陀地域での戦いを繰り広げるなか、「楯並めて 伊那瑳(いなさ)の山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戦えば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助け来ね」と謡いました。
この「伊那瑳(いなさ)の山」とは、当地にそびえる伊那佐山(標高約637.2m)と考えられています。
この山には、式内社の都賀那岐(つながぎ)神社が鎮座しています。
『古事記』に謡われた「伊那佐山」
楯並めて 伊那瑳(いなさ)の山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戦えば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助け来ね
意味: 伊那佐の山の木の間から相手を見守って戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼の仲間よ、たった今、助けにきてくれ
八咫烏神社
『続日本紀(しょくにほんぎ)』(797年)には、「慶雲2年(705年) 八咫烏の社を宇陀郡に置いて祭る」とあります。式内社の八咫烏神社の創祀は、飛鳥時代末で、とても古い歴史があります。
神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(建角身命の化身)。
八咫烏(やたがらす)は、中国の陽鳥(日の神・太陽のシンボル)としての考え方が影響しています。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地豪族に伝えられていましたが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂(かも)氏が祖とする建角身命(たけつのみのみこと)が八咫烏となりました。
稚児石(ちごいし)
石田と栗谷との境界付近に鎌倉時代から「三住(三角)の稚児石」と呼ばれている石があります。
この石には、次のような伝説があります。
「上水分社(古市場)、下水分社(下井足)に奉仕するお稚児さんを募集したところ、13人が集まりました。上・下で半数に分けましたが、1人が余ってしまいました。くじ引きで決めようとしましたが、その児は悲しみ、怒りだし、傍らの大石に片足を踏み込んだところ、抜けなくなってしまいました。人々は大慌て。神官の祈祷によって、無事に足は石から抜けたとのこと。その後、両社は、その児を神の子として大切にしたそうな。」
稚児石にある小さな窪みは、この時の足跡と伝えられています。この石を上水分社と下水分社との神領の境界石としていることから、このような伝説が誕生したのでしょう。
灌頂寺跡(かんちょうじ)
北畠親房(後醍醐天皇の政治を支えた南朝方の公郷)終焉の地といわれています。
『南朝編年記略』正平9年(1354)9月条には、「十五日入道准三宮親房薨於和州宇陀郡福西荘灌頂寺阿弥陀院六十二歳当時賢才上下惜悼之」とあります。
アミダイン、仙瑞院、蓮池、聖天、東の坊、中の坊、本願院、塔の坂、大門坂などといった寺院に関係する小字名も残されており、昭和18年(1943)に寺院の遺構などを確認する目的で、小規模な発掘調査が行われています。
昭和63年(1988)には、国営農地造成工事に伴う大規模な発掘調査が実施され、多くの遺構・遺物が確認されています。「アミダイン」は本坊的な役割を果たしていたと考えられ、院名から「阿弥陀堂」と思われます。
灌頂寺は、出土遺物から、11世紀中葉から後葉に創建され、17世紀前葉には廃絶したと推定されています。
澤城跡
澤城は、「和州宇陀三人衆」のひとり、澤氏によって築かれました。
本丸に相当する主郭群、出丸に相当する副郭群で構成され、南斜面には、小規模な郭と考えられる平坦面も認められます。
永禄3 年(1560)には、高山飛騨守図書が城主となり、少年期の高山右近もここで過ごし、右近は、この城内の教会で洗礼を受けました。城内に教会が造られた例は、ここ澤城のみでしょう。
当時の様子は、ルイス=フロイスの『日本史』に記載されています。発掘調査では、16世紀の礎石建物の一部が見つかっています。
高山右近顕彰碑(高山右近受洗の地)
高山右近が澤城内の教会で洗礼を受けたことを記念して、昭和45年に顕彰碑が建てられています。